高取焼の由来


高取焼は、江戸文化のにない手であり、茶人大名でありました黒田如水、小堀遠州らが九州の風土の中で育てあげた茶陶窯で、遠州七窯の一つとして、又筑前黒田藩の御用窯として知られています。
焼物戦争とまで云われた豊臣秀吉の朝鮮進攻、文禄、慶長の役後朝鮮から多くの陶工が渡来し、長州では萩、肥前では唐津、そして筑前には高取焼が誕生。爾来、数々の名物、名器を生み出し、日本の茶道文化の中で脈々と息づき、「筑前に高取あり」と謳い継がれて参りました。
開窯は黒田長政公が慶長五年(1600年)に筑前の国主となって以後のことで、長政公に従って朝鮮の地より渡来せし名工、八山(和名=八蔵重貞)が開祖であります。
永満寺宅間に開窯し、其の後、内ヶ磯、上山田の唐人谷、飯塚の白旗山(寛永七年=1630年)に移り、家伝の秘法に益々磨きをかけて参りましたが、承応三年(1654年)に此の地で歿しました。
此の間、黒田二代藩主忠之は、八蔵父子を小堀遠州の許に遣わし、綺麗寂び、と云う茶道の新思想、遠州好みの作風を学ばせるなど、より高度な茶道の育成に努めました。
内ヶ磯から白旗山の時代が遠州高取時代と呼ばれているのはこの為で、中興名物の茶入「染川」「秋の夜」をはじめ幾多の名品が創られたのもこの時期であります。


その後、寛文五年(1665年)に小石原鼓窯が開かれ、四年後の寛文九年には、白旗山を守っていた初代八蔵の孫八之丞も小石原中野(現在の小石原皿山)に移窯、小石原高取時代が幕を明けます。
中野の窯は一度も火を絶やす事なく、皿山の山中に其の家伝を守り続けて今日に至っております。
小石原高取時代は、遠州高取の、綺麗寂び、の芸風を完成させ、さらに発展させ、極めて多彩な作品が生み出されました。
現在私の窯での主な焼物は、花入、水指、茶碗、建水、茶入、菓子器、向付などであります。
素地の作行と土の味、炎による変化を生かし、自家調整の自然釉をかけて、登り窯で焼き上げております。
釉の代表的なものとしては、高取黄釉、白釉、春慶釉、高宮釉、道化釉、真黒釉、緑青釉、ふらし釉、その他に特有の並黒(飴釉)などがあります。
此の様な高取特有の伝統的技法は、黒田藩最後の御用陶工でありました第十代高取安之丞(重宣)翁の遺志を、私の祖父にあたる第十一代高取八扇(佐七)が承継し、母と私とに伝えて呉れたものであります。
私はこれを現代に活かすべく、微力ながら日夜研鑚に努めております。
皆様の御鞭撻と御愛顧を切にお願い申し上げます。


                                                 高取焼十三代 高取八仙